間も無く終戦から75年

間も無く8月15日がやってきます。
そう1945年(昭和20年)8月15日の終戦から2020年8月15日で75年となります。
日本は「大東亜戦争」と名付けた、太平洋戦争から75年目です。

8月になるとテレビや新聞、雑誌、最近ではネットでも必ず戦争の特集があります。
悲惨でない戦争はない、でも日本人は戦争を起こした、その罪悪感を持って、2度と戦争をしない決意をする、、、というストーリーがステレオタイプかなと思います。

私も長い間そう思っていました。

だから広島と長崎に原爆を落とされて、女性や子供も含めて何十万という人たちが命を失い、その後も放射能に苦しんだのも仕方がない。
だから東京大空襲で町中が火の海になって、10万人の人が地獄の業火のような炎に包まれ命を落としたのも、我々が悪かったから仕方がない。

我々が戦争を起こしたのだから、原爆も大空襲も仕方がない、、、そんなことあるか!
強いものが弱いものをチンチンに痛めつけて、挙げ句の果ては我々日本人を実験台にして大量殺戮をやられただけじゃないの?

私の父(三男)の長兄、つまり私の叔父は、徴兵され南方に向かう輸送船に乗っている時に敵潜水艦の攻撃を受けて沈没して死んだと聞かされていました。
その仇を打ちたい、ということで父は予科練に入って復讐に行く、と誓っていたと聞いたことがあります。

ということで軍国少年だった父の書斎(ってほどでもないですが)の書棚には、太平洋戦争関連の書籍が並んでおり、小学校の高学年になった私は、マキン・タラワ戦に関する本を見て、米軍の火炎放射器で身体中が焼かれて黒焦げになった日本兵の遺体のカラー写真や、ガタルカナル戦の本で、海岸の砂浜に顔の半分を埋めて亡くなっている日本兵の写真を見て、衝撃を受けると共に、これが戦争なんだと感じずにはいられませんでした。

母から聞いた話があります。

戦争中はまだ小学生低学年でしたが、弟や妹の面倒を見て家事をやっていたそうですが、お昼にちょうど食事を終えた頃、食器を洗いに水場にいた時に、米軍のグラマンが飛んできたそうです。

近所のおばさんが太い木の影に隠れ、「こっちだよ、こっちへおいで!」と言われ、食器を置いて逃げれば良いものを持ったままなので、早く走れずにいましたが、やっとのことで木陰に入り、グラマンの機銃掃射から逃れた、とのことでした。

「乗っている操縦士の顔が見えるのよ。それもこっちを見て笑っていて。狩でも楽しんでいるみたいに撃ってくるんだから、憎たらしいったら」

降伏した捕虜の日本兵を撃ち殺すシーンは映画『硫黄島からの手紙』にも出てきていたかと思いますが、沈没した軍艦から逃げ出しても、敵艦は日本兵を助けるどころかまるで楽しんでいるように、溺れている日本兵に機関銃を撃ってきたというのも有名な話ですね。

鬼畜米英、もちろん戦争がそうさせているのだと思いたいですが、所詮アジア人など欧米人から見たら下等人種、というところでしょうか。ベトナム戦争ものの映画でも、虫けらのように殺されていくベトコンの姿と日本兵の姿がだぶるものがありますね。

違う話も聞いています。私の母の伯父、大伯父ですが、日本が支那事変とよんだ日中戦争に従軍してた時のこと、中国のある村についた時、まず家々に火を付けるのさ、すると住人が外に出てくるから、出てきたところを機関銃で撃って殺すんだよ、と。

8月の終戦特集に触れれば、日本は被害者のように思えますが、実際はどうもそればかりではなく、立場が変われば所詮は同じとも言えるわけです。

淡々と語る大伯父の姿はある意味驚きでした。でもそれが事実だったのでしょう。
昭和天皇も来日した鄧小平氏に対して、過去の日中関係の不幸な事態について謝罪を含む言葉を述べたと言われています。

<あれは聞いていてこっちも体が震えたよ。私はその前に、当時の入江侍従長から、鄧小平さんのご会見のとき、真っ先に天皇陛下の方から、「わが国はお国に対して、数々の不都合なことをして迷惑をおかけし、心から遺憾に思います。ひとえに私の責任です。こうしたことは再びあってはならないが、過去のことは過去のこととして、これからの親交を続けていきましょう」と言われたと聞いていたので、そのことを尋ねたんです。答えは「その通りだ」ということだった。鄧小平さんは陛下のこのご発言を聞いて「電気にかけられたようだった」と表現していました。ややあって鄧小平さんは「お言葉の通り中日の親交に尽くしていきたいと思います」と答えられたそうです>(『田中清玄自伝』文藝春秋、1993年、288~289ページ)。

時空旅人「太平洋戦争の足跡をゆく」を本屋さんで見て、迷わず購入しました。
昨年訪ねた「知覧特攻平和会館」、そして「対馬丸記念館」が掲載されていたこともその理由の一つです。

いわゆる「カミカゼ」と呼ばれる航空特攻の基地の一つが知覧。ここには2度ほど訪ねたことがあります。

特攻に関してもいろいろな記事を読みましたが、母と二人暮らしの息子さん、自分が死ねば母一人残すことになるので絶対に特攻には行きたくない。それを知って同級生は志願しない彼に殴る蹴るの暴行を加え、それに耐えかね、ついに特攻を志願する。
志願したからには100%死が待っていて、確実に母を一人残すことになる悲しみ、でもそれを言うと母が大いに悲しむのが火を見るよりも明らかで絶対に言えない息子。
そんな思いを抱えて本土を飛び立ち特攻に向かう気持ち。

知覧に行くと特に、亡くなられた方々一人ひとりに人生があり、思いがあったことを思わざるを得ません。

そして学童疎開船にも関わらずアメリカの潜水艦攻撃で、学童834名を含む1661名の疎開者のうち、生存者は60人程度。船倉の船室に降りることすら難しかった子供たちが、敵潜水艦の攻撃を受けて階段すら登れずに、船と共に海の底に沈んで行ったことを思うと、本人の恐怖、そして子を亡くした親の張り裂けそうな気持ちを思わざるを得ません。

先にも書きましたが、私の叔父も輸送船の中で沈んで行きました。
前に見た映画「ダンケルク」に、大陸からイギリスに戻る船に乗っても、船室に入らない兵士が登場します。
前に一度船室に乗っている時に、敵の攻撃を受けて船が沈没。それまで明かりがついていたのに、魚雷攻撃を受けた衝撃音を聞くと一気に停電して真っ暗闇。皆で出口を争うも船は傾き思うところに行けずにそのまま取り残され、侵入してきたので海水に飲み込まれ溺死する人々。暗闇の中で死んでいく恐怖から甲板にいると、再びおそう敵の攻撃。
あー、私の叔父もこうやって死んで行ったのだろうなと思うと、息子を亡くして私の祖母の悲しみを思わざるを得ません。

我々が反省すれば、戦争は起きないのでしょうか?
戦争をしないためには何が必要なのでしょうか?

私は歴史に学ぶことだと思います。
そう言うと皆さん、「歴史は覚えることだらけで」とか「暗記ものは苦手で」と言う人が必ずいるのですが、違うんですよ!、受験勉強の勉強ではないのですよ。
そろそろ「勉強=受験」と言う発想はやめていただきたいですね(笑)

歴史を学ぶ事は、今を知る事です。
そのためには、流れを追うこと、が大事だと思います。

どこかのホームページにありましたが、
「歴史を学ぶのは、過ちを学ぶ事。そして、誇りを学ぶ事。
歴史を学ぶのは、未来に対する洞察力を磨く事。
歴史を学ぶのは、人生を考える事。」
だと思います。

「人間の生き様。人としてのあり方。いざという時の身の処し方。
追いつめられた人間の心理。未来社会の予測。
生きていく上での教訓。人生。人の一生。
少なくとも、年代や年表を暗記する事ではない。
歴史書は、一種の事例集である。
歴史は、いろいろな人の生き様を教えてくれる。
歴史から、人間という物の本性を学ぶことができる。
歴史から、未来を予測することができる。
歴史は、人生の宝庫である。
歴史は、ロマンだ。」

とも書かれています。まさにその通りです。

「なぜ、歴史を学ぶのか。同じ過ちを繰り返さないためである。」

こんなことをつらつら思う55歳の8月15日が間も無くやってきます。

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