あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。
2020年が始まりました。
今年も変わらず忙しい1年になるのでは無いかと思います。
既に昨年から持ち越しの仕事がわんさとあるのですが(汗)、考えるとストレスになるので出来るだけ全貌を把握しない得意?の「鈍感力」で、やれるだけやって行きたいと思います。
ということで、これを書いているのは2020年1月2日(木)、結局2019年のうちに2019年の話は書いておこう!、という思いは達成されずに終わりました。
まあ今回の「年末年始」というタイトルにすればせめて大晦日の話だけでもできるか、ということで、新年の挨拶がてら今年の年末年始を振り返りたいと思います。
2019年12月30日(月)
車で東京から常磐道を通って家内の実家のある茨城に帰省。
しかし帰宅して、自宅と駐車場の鍵がないことに気がつく!
あ、しまった、家を出るときに駐車場のゲートを閉めないでそのまま出てきてしまった! あ〜〜〜、茨城から東京まで戻る!?、いや、無理。
まあ誰かが管理人さんに届けてくれるのでは?
なんて思っておりましたが、家内のママさんネットワークで、まだ帰省していなかった方が、駐車場に探しに行ってくれたら、コントロールボックスの上の雨風にさらされない部分にそのまま置いてあったとか!、不〜〜〜、助かった。
最近はこんな感じで忘れ物ばかりで、、、もう年ですね、はい、認知症始まってます(汗)
2019年12月31日(火)
この日は前日からかなり暖かくなるとの予報で、実際朝からだんだん気温が上がり、本当にぽかぽかと陽気のいい午前中でした。
午前中のうちに大晦日の夕食の買い出しを済ませていましたし、もう50代半ばにも関わらず、私が家内と結婚した25年前と同じく「食べる人」と義母には思われており、前日の夕食とこの日の朝食と大量に用意され食べるものと思われているため、つい食べてしまったために、胸焼けがしており、またそれでなくても年末人生最高体重を記録してしまった私としてはこのまま家でゴロゴロしていては、ついに体重が大台に乗ってしまう!、という懸念があったため、幸いこの日は暖かかったということで、スマゲーに夢中のバカ息子を置いて一人近くの散歩に出かけました。
しかし午後2時近くになって外に出てみると、陽が出ている時はまだ暖かいものの、風が強くなって来ており、陽が陰ると少し寒く感じるようになっていました。
さてどこに行こうかな?、と思っていると、JR常磐線勝田駅の上空に龍が登るような雲を発見! これは神の導き!、と勝手に思い(笑)、その方向に向かいます。
小一時間は歩きたいな、ということで、JR勝田駅にある近隣の地図を眺めます。
何か面白い場所はないかな、と見たところ、「武田氏館」というのを発見!
そうここひたちなか市は「甲州武田氏」発祥の地なのです!
看板では見たことがあるものの、実際にそこまでは行ったことがなかったので、これは面白い!、ということでGoogleで経路検索をすると駅から徒歩15分!、楽勝、楽勝、ということで歩き出しました。
歩いていくうちにだんだん風が強くなり、しかも北風らしく肌寒くなって来ます。住宅地の外れ、昔は海だった田んぼを臨む崖の上に、武田氏館(たけだうじやかた)はありました。
南西方向の田んぼの先に筑波山を臨む場所、この日は大晦日で当然休館でしたが、南が田んぼ(海)であれば、当然北に向かって勢力拡大するしかないだろうな、という感じです。近くにあった案内板には以下のことが書かれておりました。
(ひたちなか市ホームページより)
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ひたちなか市武田は,戦国時代の名将武田信玄で知られる甲斐武田氏の発祥の地です。平安時代末期(12世紀初め頃),源義家の弟義光は常陸国への進出を図り, 長男義業(よしなり)を久慈郡佐竹郷(常陸太田市)に,三男義清を当地,那賀郡武田郷に土着させました。義清は地名をとって武田を名乗り武田氏の始祖となりました。
義清とその子清光は,武田郷周辺の古くからの豪族との間で勢力を張りあっていましたが,その行き過ぎた行為を朝廷に訴えられ,義清父子は甲斐国に配流となってしまいました。甲斐の国に土着した義清父子は,新天地に甲斐源氏発展の楚を築き,その十七代後に信玄公が輩出されました。
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常陸から追われた地で勢力を張りながら、甲斐武田氏も他国へ侵略して最大版図を誇った武田勝頼の代で滅んでしまうというのも歴史の皮肉?でしょうか。
かくいう安西氏も、平安から鎌倉時代には石橋山の合戦で破れ、海を渡って逃げてきて房総半島に上陸した源頼朝を鋸南町で助けながら、「安西氏では心もとない」と頼りにされず、千葉氏を頼ってさっさと亥鼻城に行かれてしまったり、室町末期では結城合戦?に破れて落ち延びてきた新田氏の末裔里見氏を安西の殿様は家臣に取り立て、その力で4氏で争っていた安房国を安西氏が統一したのも束の間、信望を集めた里見氏に下克上により立場逆転!、一点里見氏の家臣となってしまうというマヌケな一族(苦笑)。まあ一族皆殺しになるよりはマシとも言えますがね。
さらに私の祖先は、里見氏の家臣となった安西氏のそのまた家臣(陪臣)であり、安西の殿様から「安西」性を賜ったものの、殿様に諫言をしたことでお殿様の勘気に触れ、身分を剥奪されたと聞いております。
まあ父母の記憶の話ですからどこまで本当かわかりませんが、いかにも私の先祖らしい「マヌケ」さだなと思わずにはいられません(汗)
血は争えない、というのかわかりませんが、そんなことを感じた武田氏館訪問でした。
武田氏館の隣には心地よさを感じる神社「湫尾神社(ぬまおじんじゃ)」がありましたので、参拝しました。
「峡陽文庫」というweb siteに、創建年代は明らかではないが、『勝田市史 中世編』には神社の起源として「湫尾神社の由緒は明らかではないが、『常陸風土記』の香島郡の条にみえる、香島神郡の沼尾の社や沼尾の池との関連が考えられる。おそらく、中臣則頼がこの地を開発したとき、武田溜を香島の沼尾の池になぞらえて、湫尾神社を建立したのであろう。」と記してある、と紹介されていました。
そんな神社を後にして、JR常磐線の踏切を渡り、田んぼの先の筑波山を見ながら、陸上自衛隊勝田駐屯地を迂回して、北風の吹く中、家内の実家へと戻った時には、出てから1時間半後でした。
大晦日の夜はカニを食べて、天ぷら入りの年越し蕎麦!
テレビはベタですが「紅白」を見て、ゆく年くる年で2020年を迎える、いつものパターンでした。
2020年1月1日(水)
朝はお雑煮。若い時は自宅でついた餅(餅つき機ですよ!)を7−8個食べていた私ですが、流石に今は無理ですので、4個と半分。残念がる義母ですが、そりゃもう50代半ばですから無理な要求ですよ!(^^)
毎年茨城に来ると初詣は「村松山虚空蔵堂」
ここは伊勢の朝熊虚空蔵尊、会津の柳津虚空蔵尊とともに日本三体虚空蔵尊のひとつとされるそうですが、実はお寺には関心のない私は、何が偉いのかよくわかりません(苦笑)
ちなみに公式ホームページには、
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虚空蔵菩薩はとくに知恵の仏様として信仰を集めてきました。そのご利益と言えば
「福徳智能を授け、開運出世、無病延命、諸願成就の願いを叶い賜う」
現代的な簡単な言葉でいうと、頭脳明晰、記憶力増進、成績向上、技芸上達のご利益です。また厄除け、方位除け、開運などの願いを叶えるといわれています。
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う〜ん、私にも、スマゲー狂いのバカ息子にも、どうもご利益はなさそうで、、、汗
まあ、とりあえず家内の実家の年中行事なので、一緒に言っている、という感じです(苦笑)
私の関心は虚空蔵堂のお隣の茨城一の宮「村松大神宮」
こちらは公式ホームページによれば、大神宮の創立ははなはだ古く、「和銅年中(西暦700年頃)奉斎」と伝えられるとのこと、つまり飛鳥時代。
元禄七年(西暦1694年)水戸藩主 徳川光圀公は、新たに神殿を造営され同九年あらためて伊勢皇大神宮より「御分霊」を奉遷し、徳川斉昭公が、藩主として初めて国に就かれるや、五月二日奉幣参拝され、安政四年(西暦1857年)には、国事多難にもかかわらず神殿の造営を起工、同七年一切の殿舎が竣工し、神宮尊崇・勤皇の精神を喚起されたということで、勤皇の志士が多数参宮し、萬延元年(西暦1860年)閏三月、櫻田門外において活躍した忠勇義烈の志士も当宮に参拝し成就を祈願、みごと本懐を遂げた、とのこと。
さらには昭和三十一年より神池「阿漕浦」の水を日本原子力研究所へ分水。世論を分ける大論争となりましたが、「地域の発展と日本の未来のために」との先代宮司の英断によるものでした。それにより、わが国初の「原子力の火」をともすことに成功。以来核燃料サイクル開発機構・日本原子力発電株式会社・日本電信電話株式会社へも分水。新しいエネルギーの開発の源となりました。
う〜ん、なかなか色々ある神社であることがわかりますね。
何はともあれ、虚空蔵堂訪問後、こちら大神宮を参拝するのがお決まり?のコース。息子がお守りを買ってもらって、たまたま「海まで1 km」の看板に気づいた私。「天気もいいし、海まで往復3分、腹ごなしに運動しませんか?」と提案すると、一同賛同し、鎮守の森を抜けて徳川斉昭公によって水戸八景の1つ、「村松晴嵐」として選ばれた他、白砂青松100選にも選ばれている「村松海岸」へ行くことに!
ほとんどが日本原子力研究開発機構の敷地だそうで、簡単に言えば「原研」の中の柵で囲まれた通路?を海まで歩くのですが、鎮守の森を出た途端に砂がずっと続いているんです。これが歩きにくい(^^)
しかし確かに15分くらい歩くと、そこには波荒い太平洋が!
喜んだのは義母。なんでも約70年ぶりに来た!(本当?)とのことで、海岸に落ちている貝殻を拾って、お弾きにして遊んだと言う。
その貝殻が上の写真。平らになり、周囲は角が取れているだけでなく、平面も滑らか。確かに綺麗でした。
その後は東海村からひたちなか市に戻り、「無縁さん」へ。
ここはその昔行き倒れの旅人を地元の方がねんごろに弔った塚で、その塚にツツジを植え人がこれを信仰したと言われているとのこと。無縁仏を信仰したところから無縁さん(無縁様)だそうです。
ひたちなかで一番有名なパワースポットらしいです。
この2箇所への初詣を終えたら、近くの神社を3箇所まわり、これで初詣は終了! 年初のお勤めを果たした感じですね(^^)
2020年1月2日(木)
朝9時に茨城を出て、常磐道で都内に向かうも、三郷付近から常磐道ー6号、外環、4号ー中央道とどこも大渋滞!
仕方なく三郷から外環で市川まで来て、そこから下道を通って都内を抜けて甲州街道から三鷹に戻りました。
車を置いてから出かけたのは近くの勝渕神社。ここは息子の初宮参りに行った神社。その後も毎年ここには家族で初詣に来ております。
2001年8月から三鷹市に住んでもう19年半、この間2回市内で引越しをしておりますが、この勝渕神社を時計回りに回っている感じ、つまり中心はこの神社!
今年もまた1年お世話になります、と言う感じで、年末年始の初詣を終えました。あ、いや、まだ完全には終わっていませんがね!(^^)
続きはまた!
帰宅後、常磐道守谷SAの守谷ベーカリーで買ってきた「つくばクリームパン」を、ひたちなか市に本店がある地元では有名な「サザ コーヒー」の徳川将軍珈琲で頂きました!(^^)