東京ゐのはな会2010:勤務医通信Vol.15「千葉を離れて15年」

先月6月の理事会で、私の「東京ゐのはな会」理事就任が決まりました。大学の同窓会では無役にも関わらず、母校の現役教授でありながら、地域同窓会である「東京ゐのはな会」理事に就任することに些か躊躇する気持ちもありましたが、今から遡ること8年、2010年1月30日(土)の新年会に参加して以来の東京ゐのはな会とのつながりを思えば、お断りする選択肢は無かったかな、と。

今回、広報担当理事・副会長のI先生から、「新理事の挨拶」という原稿の依頼を頂き、PC内の古い「同窓会」フォルダを開いた中にあったのが、この文章。ここまで詳細に自分を見直したことは無かったのですが、今や認知症になった母ですが、当時この文章を読んで「お前も苦労したんだね」と涙してくれたことを思い出します。

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千葉を離れて15年

杏林大学医学部薬理学教室准教授
安西尚彦(平成2年卒)

平成2年に千葉大学医学部を卒業致しました、杏林大学の安西と申します。東京ゐのはな会では理事の岡本君の同期になります。実は平成13年の8月から三鷹市に住んでおりますが、最近東京ゐのはな会、そしてその勤務医部会があることを知り、それなら基礎医学に身を置きます私のような変わり者も参加できるかなと考え、2010年1月の新年会から参加させて頂いております。そこで勤務医部会長の吉原先生からのご指名を受け、不肖私めが執筆の機会を頂いた、という次第です。

はじめに簡単に自己紹介をさせて頂きます。学生時代に、後に東大第二内科教授になられる小俣政男先生や若新政史名誉教授の内科診断学講義に魅せられ、平成2年の卒業後、大藤正雄名誉教授の主催される第一内科(現腫瘍内科学)に入局致しました。その後2年間の水戸済生会総合病院での研修等を経て大学に戻り、平成6年に大学院へと進みました。その際には腎臓病学に進もうと決めており、学内留学として福田康一郎名誉教授の第二生理学(現自律機能生理学)に派遣されました。そこで当時助教授でおられた腎生理学を専門とされる河原克雅先生(現北里大学教授)に師事しますが、すぐに北里大へと異動されたのに伴い私も北里大学に移り、平成7年7月から生理学教室の助手となり、本格的に?基礎の人間となりました。

ここからがタイトルの「千葉を離れて15年」の始まりなのですが、以後は苦難の連続でした。こう書きますと、やはり私学は大変なのか、と思われる方もおられるかと存じますが、そうではありません。小、中、高、大学と千葉を離れることのなかった私が、千葉大を離れて初めて知ったこと、それは自分の生き様が、如何に千葉だけに適応していたものだったか、という現実でした。そこから「千葉」という看板を背負わずに、自分の力だけで故郷・母校を離れて生き抜いて行くことができるようになるまでの苦労の連続、という意味です。

生理学の分野では、1980年代に勃興した分子生物学が次から次へと新しい遺伝子を見出しており、私も北里大学では当初腎臓のイオンチャネルのクローニングを目指しました。しかし私が研究を始めた1995年前後、既に多くのチャネルの遺伝子の同定は終わりつつあり、その中で残されたわずかな分子の同定を試みるのは新参者である我々には至難の業でした。結果4年を費やしたものの何も取れずに終わりますが、そんな中で「遺伝子クローニングの次は、その制御機序、特にチャネル結合タンパク質の同定だ」と考えるようになります。しかしそのための新しい手法をここでは身につけられないと考え、ならば留学しかないと思いたちます。実は、基礎に移る際に大きな決めてとなったのは、河原先生の「3年経ったら留学させる」というお言葉でした。そこでそれを楯に、かねてから関心のあった国フランスの、イオンチャネル研究で有名なLadzunski教授のラボへの留学を目指しました。しかし何のつても無く、普通であれば留学など不可能なのですが、1997年秋に山形にて開催されるイオンチャネルの国際会議にLadzunski教授が出席されることを知ります。そこで河原先生に相談し、直ぐに交渉をして頂いたところ、成田からの帰国前に、北里大に寄って講演をしてもよいとの返事を頂きました。学生時代の第二外国語でフランス語を選択して以来、医者となった後もフランス語の勉強は細々と続けておりました。そこから2週間、生理学学生実習で疲弊した体に鞭を打ってフランス語の勉強に励みます。Ladzunski教授の講演後、覚えたてのフランス語で必死にコミュニケーションを図りますと、その努力が認められ?、首尾よく留学の承諾を得ます。しかし「滞在費は自分で見つけて来い」と言われまた途方に暮れます。さてどうしたら留学の資金を得られるのか? 何の成果もない私には正直まだ評価(学位)を得るに足る業績(論文)はありませんでした。しかも頼りになるツテもないため財団の助成金はとても難しいと諦め、藁にもすがる思いでフランス政府給費留学生に応募します。すると「願えば適う」もので、運良く採用して頂けることになり、ようやく留学という門が開きました。

1999年10月から約2年間、フランスではValbonne Sophia Antipolisというニースとカンヌの中間にある筑波研究学園都市のような場所にある、CNRS分子細胞薬理学研究所に在籍しました。丘の上にあるため、白い雪を被ったアルプスの山々と、紺碧の地中海を見渡せるという絶好のロケーションにあり、これで成果が上がれば文句無しだったのですが、ここでも苦労の連続でした。チャネルの結合蛋白を取りたいという自分の希望を伝え、当時広まりつつあったプロテオーム解析の一手法である酵母ツーハイブリッド法を習得し、痛みと関係する酸感受性チャネルASICの結合タンパク質の同定を試みました。私が来るまで3年間ラボでは誰も成功していなかった、ということを後で聞くのですが、1年半を費やしたものの空振りの連続でした。そこで、借りていたアパートから歩いて5分にある観光地Juan les Pinsのビーチに出かけ、地中海を眺めては、傷ついた心を癒す日々が続きました。帰国も半年後に迫り、基礎をやめて千葉に帰って透析病院に就職しようと動き始めていたところです。私の計算ミスから10倍量の酵母をスクリーニングしてしまったのですが、それが意外にも多くの陽性クローン(候補分子)を得ることに成功します。ラボで最初の成功者はなんと私でありました。ただ、それらの候補分子が本当に生理学的に意味のあるものか結論を出せぬまま帰国の日を迎えます。「悪いけど、チャネルの機能に影響しなかったら、論文には出来ない」との同僚の言葉にPas de problem.(問題ないよ)と答えるしかなかった私ですが、その後5つあった候補分子の中の最後の分子がチャネルを活性化することがわかり、帰国して1年後に同僚の協力によりJ Biol Chemに論文公表することが出来ました。この仕事で2003年に千葉大学にて学位(医学博士)を取得することになります(腫瘍内科学、税所宏光名誉教授)。

留学前「フランスに行って成功を収め、一旗揚げるまでは帰国しない」などと考えていたものとはあまりに異なる現実に直面し、嫌でも自分の行く末を考えざるを得ない状況に至りました。留学したラボが「薬理学研究所」だったこともあり、生体の正常機能を対象とする生理学から、疾患の治療に結びつく薬の開発につながる薬理学に、私自身の興味の対象が移って行きました。薬理学へと移るきっかけとなったのは、河原先生の教室の客員教授であった杏林大学医学部薬理学の遠藤仁名誉教授との出会いでした。遠藤先生は、無機イオンではなく、有機イオンの細胞膜輸送を担う「トランスポーター」を研究しておられ、薬物の腎排泄の分子機序を明らかにしつつありました。世界で最初の腎有機酸トランスポーターOAT1を初めいくつかのトランスポーターを同定していたのですが、その調節機序は不明ということで、私がフランスで習得した酵母ツーハイブリッド法を杏林大に導入することを期待され、河原先生の同意を得たところで、2001年の8月、帰国後は杏林大の遠藤研究室の門を叩きました。2002年に遠藤先生は世界で初めて尿酸トランスポーターURAT1を同定し、杏林大学では初となるNatureへの論文公表を果たします。同論文に続き、私はURAT1の結合タンパク質としてPDZK1という細胞内支持タンパク質の同定に成功し、遠藤先生の始められた尿酸輸送の仕事を以後引き継ぐこととなります。

2000年のヒトゲノム概要配列の解明により、チャネルに比べトランスポーターにはまだ多くの機能未知遺伝子があることを知ります。そこで遠藤研究室にて、以前適わなかった分子クローニングの仕事をも私が担うこととなります。2010年までの間に、多数の有機酸、尿酸、アミノ酸のトランスポーターの新規分子の同定することができました。

このように千葉を離れて15年、苦労の連続ではありましたが、僅かな運と多くの方々の支えを受け、ここまで生き延びて来ることが出来ました。その原動力となったことは、多くの患者さんを見送る日々を過ごしたことで、生きてさえいればいつかは何とかなるだろうという楽観的発想と、それを裏打ち?する千葉大出身である誇りであったような気が致します。現在は、お世話になっている杏林大学の一員として、同大学の研究部門の顔にならんと頑張っております。千葉にそのままおれば、ここまで苦労することはなかったかもしれません。しかし千葉を離れたからこそ、普通では体験できない多くのこと、多くの人に出会えたように感じております。母校を離れて活躍される東京ゐのはな会の諸先生方も大なり小なり似たようなご苦労をされておられるのではないかと存じますが、であればこそ、このような会に集い、貴重な経験を分かち合い、そして日本国の首都東京で、今後も我々に続いて東京にやってくる千葉大の後輩たちのための橋頭堡として頑張る思いを強くして行ければ、と考えております。

最後になりましたが、教授就任挨拶でもないにも関わらず、私のようなものに執筆の機会をお与え頂きました、吉原先生、そして勤務医部会の先生方に心よりお礼を申し上げます。基礎や臨床でひとり上を目指して頑張っているような者には、本会の存在は必要であると考えております。もし可能でありましたら、我々のような、教授でも部長でもない身分のものにも、引き続き機会をお与え頂きますようお願い致します。必ずや会の活性化につながると信じておりますので。今後ともよろしくお願い申し上げます。

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