12年のカーリースに幕:平将門ゆかりの地巡り

2020.1.26(日)
今朝も5時には起きて、家族で伊豆にでも出かけよう!、なんてことを前夜には言っていたものの、結局目覚めたのは朝6時。う〜、昨夜は酒は飲んでいなかったのに起きられなかった、、、
しかも何だか体が重く、いつもの勢いでは起きられず。まあこんな日もありますね。

ということで、朝7時になり、家人を起こして今日で最後となる車でのドライブに出かけました。

1999年、フランス留学前に車を売り払い、2001年に帰国後もしばらくは車無しの生活でした。
息子が2003年3月に生まれ、あまりにも手のかかる子供だったため、なかなか次の子供、という訳には行かずにおりましたが、息子も4歳になった頃からそろそろ手も離れ始め、その頃から二人目が欲しいね、ということになり、不妊治療を再開しました。

当初は新宿の方の有名病院に通ったのですが、1度妊娠まで至ったものの、それは子宮外妊娠であったため、泣く泣く中絶。自分が生まれた駿河台日大病院での中絶手術というのは何とも言えないものがありました。

で、K林大で息子を授かった際に治療して頂いた先生がその後大学を退職され調布市内で開業しておられるので、やはりそこに通おう!、ということになりましたが、なにせ自宅から直で行けるバスの便は無いため、そして第二子を授かった際には恐らく息子を預けたりなど、車無しでは生活も難しかろう、ということで、1999年に手放して以降9年ぶりの2008年1月、カーリースという形で車を持つことにしました。

都内では運転したことのない家内は、以前乗っていた日産マーチがいい、というのですが、流石にそれでは小さいので、家内でも運転できそうなギリギリの大きさの車、ということで、日産キューブを選びました。
最初に選んだ車の色は私たち夫婦が2年住んだ南仏コートダジュールを思い出させる「パシフィックブルー」。その色は当時も今も殆どありませんでしたので、それなりに思い入れがありました。

2010年11月、私が前職D医大主任教授に内定した頃、ちょうど5度目の不妊治療をしておりましたが、結果妊娠反応無し、ということで、本来車を持つ理由は無くなったものの、私が栃木へ単身赴任することになるということで、車は手放さずにそのまま利用することになったのです。

東日本大震災の影響の残る2011年4月栃木へ赴任。東京ー栃木を何度往復したか記憶がありませんが、リース開始して4年になるのを機に、2012年の1月、2代目のキューブに乗り換えます。今度はパールホワイトと気分一新しました。

2代目キューブでは東京ー栃木を頻繁に往復した訳ですが、乗っていた3年間で高速走行中の飛び石でフロントガラスが何度もやられ、一度は非常に大きなヒビが入ってフロントガラスを交換せねばならない状態でした。

そんな呪われた?車のツキを変えるため、2015年1月、3年乗ったキューブを乗り換えて3代目に変更しました。今度はメタリックブルーのボディ。なかなか初代のパシフィックブルーは無いので、また青系に先祖返りでした。

この車に乗り換えて9ヶ月、今度は母校千葉大に戻ることが内定。それなら2代目のまま乗っていればリース契約終了できたのにな、と思ったのですが、結局母校に戻った後も前職D医大の特任教授を兼務することになったため、東京ー栃木の往復は頻度は減ったものの続くことになり、そのまま乗り続けた、という訳です。

ちなみにこの3代目のキューブ、母校復帰を2ヶ月後に控えた時点で、何度北関東道走行中に壬生ICで降りる直前にトラックと接触。教授になることが決まったら交通事故には気をつけろ!、と言われていたにも関わらずの接触で、これで折角の教授も棒に振ることになるのか、なんて思って落ち込みましたが、実は単なる物損であり、人身事故ではなかったので大事には至らず胸を撫でおろしました。
ただ、車の修理のためにカーディーラーに行ったところ、「時速100 km以上で走行中だったのですよね?普通は接触で車がスピンして運転手が無傷でいられるはずないのですが、本当に何もなかったのですか?」と驚かれる始末。
あれ、そんな大変なことだったのか、と後からぞっとしたのですが、この車は(いや私は?)ツキがあるな!、ということで、この三代目のキューブは「ツキのある」車だとずっと乗り続ける思いを持ちました。

そしてこの2020年1月でリース契約満了となる5年が経過することになり、乗り換えるか、買い取るか、それとも単に終了するかと悩んだ挙句に出した答えは「契約終了」、つまり車を12年ぶりに手放すこと、でした。

いつも通り前置きが長くなりましたが、1/28で契約終了となるので、1/28(火)には仕事もありディーラーに行く時間は無いため、1月最後の日曜日となる今日1/26に車を返却することにしたのです。

で、話は戻り、この日最後のドライブ先に選んだのは東国の王が愛した故郷、のどかな日本の原風景が広がる平和な街・茨城県坂東市です。

本当は、伊豆に行きたかったのですが、起床が遅れたので諦め、湯河原から箱根もいいかなと思ったものの、天気予報では「雪」とのことで、路面も凍結して危なそうなので諦め、房総はまた行くこともあるので何もこの日に行かなくてもということでやめ、日光なんてのも考えましたが電車でもいけるからいいかとなり、昨年の夏、息子のD医大オープンキャンパスに合わせた栃木旅の帰りに立ち寄った茨城県自然科学館へ向かう際に見かけた「平将門ゆかりの地」にでも行って見るか、ということで坂東市に向かいました。

ちなみになぜ平将門なのか?
歴史オタクの私が最初に見たNHK大河ドラマは、たまたま祖母がつけていた1976年放映の『風と雲と虹と』。平安時代中期を舞台に、ほぼ同時期に朝廷に対する叛乱を起こした平将門、藤原純友の生涯を描いた作品です。

私が生まれた病院は先に記載しましたが「駿河台日大病院」。神田駿河台の氏神さまはまさに平将門命を祀る神田明神。
そして何より千葉大学医学部のある亥鼻キャンパスにある七天王塚は別に『平将門の七騎武者の墓』と言われており、平将門伝説が伝わる場所。
附属図書館亥鼻分館長として、ここ2年年末にはこの「七天王塚清め祓い式」にも出ているのです。
でこの平将門さま、簡単に言えばおのれの才覚と武力でもって、私的集団をまとめあげ、腐敗した公的機関をぶちのめして、自分たちの国を造った男。そう関東一円の8箇所の国府を降伏させて新皇と称する、と言えば聞こえがいい?ものの、まあ私から見れば単なる東国生まれで世間知らずのバカお人好しな英雄という感じですね。
そんないかにも東国人らしいキャラの平将門さまが私は以前から大好きでした。

最初に向かったのは平将門公・終焉の地に静かに佇む國王神社です。
首都高から常磐道に入り谷和原ICでおりて國王神社に向かいましたが、途中「一言主神社」の大きな看板が目につき、ここまででかい看板なら立ち寄るのも悪くは無い、と國王神社の前に一言主神社に行くことにしました。

一言主神社は「願い事を一言で願ったら、何でも叶えてあげよう」という神様で、総本社は奈良県御所市にある葛城一言主神社(かつらぎ ひとことぬしじんじゃ)。私は以前奈良を訪ねた際に、参拝したことがあり、その時にも願いを一言で願いました。何を願ったかは秘密!(^^)

そんな一言主大神がなぜ茨城県に?
神社の縁起によりますと
「第五十一代平城天皇の時代。 大同四年(西暦八〇九年)陰暦十一月十三日。今の社殿のある辺りにあやしき光が現れ、数夜の後に雪の中からタケノコが生じ、一本が三つに枝わかれした不思議な“三岐の竹”(ミツマタのタケ)となりました。
あまりに不思議なので村人達がお祓いを致しますと… 『われは大和国葛城山(ヤマトノクニ カツラギサン)の東高宮の岡(タカミヤノオカ)にいる一言主大神(ヒトコトヌシノオオカミ)なり、今この国の人々を災いから救うためにここに来た。すなわちこの“三岐の竹”(ミツマタのタケ)を私とおもって末永くおまつりしなさい。』とおっしゃいました。
村人達これに驚いて、この辺りの人の出入りを禁じ、お社を建てました。それからこの所を『三竹山』(ミタケサン)と言うようになりました。」
とのこと。この“三岐の竹”はこの日も境内に飾ってありました!

実は紛らわしいのですが、こことは別に茨城県坂東市岩井に一言神社(ひとことじんじゃ)があり、ここは平将門公の本拠地に鎮座する神社で、将門公が石井の井戸を湧き出させた老翁を祀ったことに始まるとされています。この石井の井戸はあとでお話しします。
どうやら、私が今回訪ねた常総市の一言主神社と名前が類似するものの、無関係とのこと。

さあ一言主神社参拝を終えたら國王神社へ!
林の中にだらん?とした駐車場があり、そこに車を止めて、國王神社を参拝します。ここは平将門ファンのメッカということでしたが、人影もまばら、知らなければただの田舎の神社としか思われないですね。

続いて向かったのは「石井の井戸」。田園地帯にあり、中根台地の裾辺にある地下水の湧き出し口で、古代人がこの地に来て、湧水近くに移り住んだと思われるとのこと。

ここと平将門とのつながりですが、平安時代に書かれた『将門記』には、将門の本拠となる石井営所として記述されているとのこと。
「国王神社縁起演書」には『将門が王城地を求めてこの地を見回っているうちに喉が渇いて水が欲しくなった。その時、どこからか老翁が現われ、大きな石の傍らに立っていた。翁はその大石を軽々と持ち上げて大地に投げつけると、そこから清らかな水が湧き出し、将門と従兵たちは喉を潤すことができた。
将門は不思議に思い、翁を召して「あなたはどのようなおかたなのでしょうか」と尋ねると、翁はかしこまって一首の歌を詠んだ。

久方の光の末の景うつる
岩井を守る翁なりけり

と唱じると姿を消してしまった。
将門はこの翁を祀るとともに、この大地に城郭を造ることに決めたのである。』と書かれているとのことです。

さて、この後さらに向かったのはLINEトラベルjpというサイトに「ここが平将門戦死の地?「北山稲荷大明神」は将門の心霊パワースポット」と紹介されていた北山稲荷大明神。「樹木が鬱蒼と生い茂り、薄気味悪い場所。」と書かれていましたが、これがGoogle Mapには載っているものの、そこに至る道路が見当たりません。

ぐるぐると周囲を回って、ひょっとするとこれでは?、という路地に入り、車を止めて歩くと、発見!
「住宅街の裏側に、ひっそり静まり返った一本のけもの道が伸びていますが、この先に将門が亡くなったとされる聖地があります。」と書かれた通りの場所でした。

「平将門の乱」を描いた軍記物語「将門記」では、将門が最後に陣を張った場所が「辛島郡(猿島郡)之北山」と記されていて、北山の場所は定かではないのですが、有力な一つがこの場所とのこと。石の鳥居が建ち、その奥に小さな祠があり、安らかさ、静かで清浄な気配を感じる場所でした。

ちなみに祠の近くの木にはサルノコシカケのようなキノコ?が!

さあ、これで予定していた場所はとりあえず回ることが出来ました。朝食抜きだったので、お腹が空いてきた10時前。しかし多くの食堂は11時からということで、まだ早い。では、時間潰し?に昨年夏にも行った茨城県自然博物館に行くことにしました。

ちょうど今は第76回企画展「宮沢賢治と自然の世界-石・星・生命(いのち)をめぐる旅-」をやっていたので、岩手県と縁のある私には大変嬉しい状況でした。

普段スマゲーバカの息子も、なぜか博物館に来ると全て見ないと気が済まないらしく、昨年も見ているのに最初から見て回るしつこさ! 大抵のことは淡白な息子ですが、博物館で見せるしつこさは早く企画展を見に行きたい私には辟易でした。去年も見ているからいいだろ〜、って感じで。

おかげで空腹な上あちこち見させられた挙句に到着した企画展。早く昼食場所に向かいたい気持ちに負けて、あまりじっくりと見られず。そこで帰りに冊子を購入。これで帰宅後反芻してみたいと思います(^_-)

さあ、一回りして11時過ぎ、そこからまた坂東市の繁華街に戻ります。
それまでに何回か「うなぎ」と書かれたのぼりをみていたので、心は「うなぎ」

「中屋」というお店に行きたかったのですが、駐車場がわからず、結局広い駐車場の「あらきや」に入ることにしました。

色々グレードはありましたが、庶民である私は一番安いうな重【竹 3,300円】を選択。うん、美味しいですね。でも値段はこれより少し高かったですが、以前ペリエ千葉の中で食べたうなぎの方が美味しかったかな?
と思いながらも、空腹だったため、家族3人あっという間に全て平らげてしまいました!(^^)

食べ終わると最後にお土産!
これまた登りで「将門煎餅」というのを見かけたので、それが欲しくなり「岩井名物 将門煎餅本舗」本店へ!

店に入るとお店の女性(おかみさんっぽい)が出てこられ、色々試食をさせて頂く。かなり歯ごたえのある煎餅で、いいお味。ということで、これをラボ用のお土産に購入しました。

そうこうしていると、車の走行距離がぴったり38,000 kmを表示!
5年でこれですから、やはり私的には乗っていない方ですよね〜(^^)

夕方までにはディーラーに車を返却するため、ここで残念ながら帰路に。
元来た道を戻り、谷和原ICから常磐道に。守谷SAで守谷ベーカリーに行きますが、お目当の「守犬パン」(11時発売)は既に売り切れ!あ〜、残念!

12時から13時代とあって、高速は順調に流れ、14時には三鷹に戻りました。
途中睡魔に襲われたこともあり、一度家で小一時間昼寝をしてからディーラーへ。

12年に及ぶマイカー生活に別れを告げた瞬間でした。

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