同じ千葉大学医学部S59入学の知人から、千葉県いのはな会会誌への寄稿依頼を頂きました。12/3で薬理学会年会も終わり、ちょうどm3(エムスリー)で自分の留学のことを思い出したこともあり、m3記事では語れなかった私の留学体験の詳細をもう少し(かなり?)綴ってみましたので、千葉県いのはな会会誌発行までのフライングですが、ご紹介させて頂きます。
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海外留学の意義:”Road to France 1999” 理想と現実
今回同じ昭和59年4月入学の同期であり、千葉大学第一内科の同門である千葉県ゐのはな会理事のK先生から執筆の依頼を頂きました。
私はミレニアムを控えた1999年9月末に留学先のフランスに向かいました。そして2001年7月末に帰国するまで1年10ヶ月南仏コートダジュールはニースとカンヌの中間にある港町アンティーブ・ジュアンレパンという街に滞在しました。
慣れないフランス語に苦労し、一癖あるフランス人たちに馴染めない上、本業の方でも捗々しい成果を上げられず、論文も無いまま帰国するしかない、正直何のために来たのか?、と思うような状況でしたが、世界最高の観光地を留学先に選べたお陰で、金が無く貧乏にも関わらず、それはそれは楽しい充実した週末の日々を送り、今でも自分の人生の中のクライマックスの一つであると感じています。
そんな私の留学の光と陰について、お話ししたいと思います。
理想(留学前)
そもそも留学をしようと思ったのは、1995年に千葉大学第一内科の大学院を辞め、基礎医学の道に転向して北里大学医学部の生理学助手(今で言う助教)になり、そこから2年ほどしゃにむになって実験をやったものの全く成果が出ず、これはこのままここにいても埒があかないのではないか?、と考えたことに始まります。
色々な人から「基礎に行くということは『教授』を目指す、と言うことで、教授になるには専門を問わず論文のimpact factor (IF)が合計で100以上無いといけないよ」と言われており、当時論文がほぼほぼ「ゼロ」だった私は、「一体どうしたらIF 100になんてなるんだ!、教授になるなんて絶対無理だ」と嘆く日々でした。そんな時に基礎系の学会・研究会に行くと、海外留学帰りで華々しい成果をあげて凱旋された先生方の話を伺う機会があり、「これは俺も留学して大きな成果を上げて一発逆転を狙うしかないな」と思うに至りました。
また人とは違うことをやれ、と変わり者の母親から洗脳されて育てられた私は自他共に認める変わり者でしたので、それまで「変わり者の自分は日本のような小さく島国根性にあふれた小さな世界では受け入れてもらえないから、留学で一旗あげ、あわよくばそのまま外国で生活する人生を送る方が幸せなのでは?」とも思っていました。
さて、では留学するとしてどこに留学するか? 北里大学時代の私の上司は自身の留学先である米国Yale大に行かせたかったようで、一度ラボ見学でNew Havenまで一緒に行きました。米国の中でも古い大学でヨーロッパを思わせる落ち着いた感じの建物や恵まれた研究環境は非常に好感を持ちました。何より自分のボスがそこまでに築いた人脈に入り、そこにいる仲間として留学後も欧米の研究者と関係を保てるのは大きなメリットと思われました。
帰国後、自分の投稿論文がその仲間に見てもらう可能性が高ければ採択の率も高まりますからね。実際そう言うメリットを得ることが一般的な留学の目的の一つでもあるかと思います。
しかし私の場合は違いました。
一つは大学卒後の卒業旅行にいけなかった経験です。私の大学卒業時はまだいわゆる「バブル期」のため、学生は就職したら遊べなくなるからという理由で卒業旅行と称して1週間から10日前後のヨーロッパ周遊に向かうのが普通の時代で、母子家庭で経済的に苦しかった私にはそんな余裕はありません。その時に私が思っていたのは「たった一、二週間の滞在なんて勿体無い!、俺なら世界的観光地に年単位で行ってやるは!」という思いでした。
最初に留学先として考えたのは、一応研究の理由からで、スイスはレマン湖のほとりにあるローザンヌ大学でした。そこはENaCと呼ばれる腎尿細管のナトリウムチャネルを同定してNatureに公表したラボです。米国腎臓学会に来ていたそのラボの教授にアポ無しで挨拶に行き、留学を受け入れてくれるか?、と尋ねましたが、予定は無い、と冷たく断られ撃沈。後で見たら日本人が留学していたので、まあ先約があったということなのでしょう。
ENaCの仕事は腎臓業界では世界的にも重要でしたので、その後もフォローしていましたが、ある総説に「ローザンヌとコートダジュールのグループが見つけたENaC」と言う表現があることに気づきます。
あれ、もう一つENaCを同定したグループがあるんだ!、とわかり調べたところ、そのグループはNature競争でスイスのラボに負け、JBCに投稿していました。国はフランス、場所はValbonne、、、ってどこ?、って感じで、今ならググれば何でも出てくる訳ですが、当時はフランスの片田舎の地名が出てくる世界地図など日本で見つけるのは至難の業で、しばらく疑問のままでした。が、学生時代に単位を取るのが楽だからという理由でとったフランス語が使える!、しかもヨーロッパ!、と言うことで、俄然やる気が出たのを覚えています。
しかしコートダジュールのラボを束ねるMichel Lazdunski教授には伝手がなく、どうしたものか、と思っていると、山形で開催されるイオンチャネルの国際会議にどうやら来るらしい、ということがわかりました。生憎その時期は2週間の学生実習の最中。あー、いけねーな、と思いながら、ボスに伝えると、それなら「北里大は山形から成田に向かう途中だから、帰国前に立ち寄って講演してもらおうか?」とボスにしては上出来の?提案があり、それをやって頂けるようにお願いしました。
すると最初は速攻断られ、まあ無理筋だよな、と思っていたところ、数日後にはやはり行けることになった、と連絡が来たのでさあ大変!
そこから思い出したようにフランス語の猛勉強を始めました(笑)
学生実習は講義以上に疲れるものですが、それこそ毎晩徹夜で(学生時代にそんな勉強したこと無いくらいに)フランス語を叩き込み、講演翌日、夜成田発のフライトまで間が空く午前中、ラズンスキー先生を鎌倉にお連れし、全編フランス語で観光案内をすることが出来ました。
最後にLazdunski先生が成田エクスプレスに乗る横浜駅のホームで、
「どうしてお前はそこまでフランス語を話すのか?」と聞かれ、待ってました!と
「それは私はあなたのラボに行きたいからです」と伝えたところ、返ってきた言葉は
「ボロンティエ!(喜んで!)」
と言う返事。留学先が決まった瞬間でした。
その後、米国に行かせたかったボスから「推薦書は書かない」と言う反対に会います。
通常はボスに反対されたら諦めるものでしょうが、大学を卒業後研修医になってもフランス語を勉強していた私。「先生今更そんなの勉強してうちの教室からフランスに留学なんて出来るんですか?、無駄では?」、なんて後輩に揶揄されながらも持ち続けたフランスへの思い。ボスに近く研究会でもご一緒した先生にご自宅まで伺ってご意見を伺うと、案に相違して「留学は心意気だ」とのお言葉!それに肩を押されるようにしてフランス留学への道を爆進?します。
そして新たな課題が持ち上がります。フランスの留学先のLazdunski先生から、受け入れはするが、滞在費は自分で持ってきてね!、とのことで、さて、と困ることに。所謂民間の財団がやっている留学助成金は、理事や評議員などが通常一人一件の推薦枠を持っており、自分のボスに反対されている中ボスを通じて知り合いに頼んでもらうことも出来ず、また応募件数が関係者枠の数を超える応募先でないと一般応募しても採択には漕ぎ着けず、そんな所に論文が無い私が応募しても留学助成金には縁がある訳ない!と八方塞がりの状態でした。
そんな中思い出したのは、まだ千葉大で学生だった頃に掲示板に貼られていた仏政府給費留学生でした。学生時代はこんなの誰が応募するんだろう、と思っていましたが、まさかそれに自分が応募することになるとは思わず、またフランス語での申請書作成のため、大学の教養時代に医学部生のフランス語講義を担当していたH先生にフランス語の講義は殆ど出なかったくせに自分の書類を見てもらうなど、まあそれは必死でしたね。
このような紆余曲折?を経て、結果運良く採択になり、1999年9月末、肌寒いフランスはパリのシャルル・ド・ゴール空港に降り立ったのでした。
現実
そして無事に飛行機ではフランスに到着しましたが、そこから先が順調だったかと言うと、これがまた順調とは真逆の状態でした。
1年前までラボには日本人がいたものの、私が行った時には誰もおらず、1人日本語が出来るフランス人はいたものの、まだまだ日本人が抜けない私は人に頼むことが出来なかったため、何から何まで1人でやろうとして、役所への手続きやら、部屋の契約やら、それはそれは大変でした。
何より先方は「相手をおもんばかる」なんて気持ちは皆無ですから、言葉が通じようが通じまいが、とにかく自分の言いたいことを伝えねば、誰もこちらを振り向いてはくれません。今言うと誰も信じてくれませんが、内向的で引っ込み思案だった私が、前に前に出る性格になったのは、そうしないとフランスでは何事も進まないから必要に迫られてでした。
そしてさらに苦労したのはフランス語で、日本にいた時に仏検2級はとったものの、現地では全然会話について行けません。パリのような標準フランス語圏ならまだマシだったのでしょうが、南仏はプロバンス語訛りがあるため、独特の発音で何が何だかわかりましぇーん、って感じでしたね。
ラボ内は研究者同士なら英語で通じますが、テクニシャンは基本フランス語だけ、さらに研究者でもランチなど熱い議論が始まるとさっと皆フランス語にチェンジして話がなされ全くついていけなくなり、もうランチも苦痛で苦痛で仕方なくなりましたね。
おまけに、自ら志願してラボ内と言うより研究所内でまだ誰も成功していなかった酵母ツーハイブリッド実験に取り組んだため、やれどもやれども結果が出ず、あー、もっと短期間で結果が確実に出るような仕事にすれば良かったとのちに強く後悔。とは言え何度も同じ実験を繰り返したことで完全にその方法をマスターし、帰国後に杏林大に所属してチャネルから対象をトランスポーターに変えても何回かやる中で続けて成果を出し、それが後に大型研究費(文科省特定領域研究)採択に繋がる基盤となるコンセプトを生み出すことになりましたから、私の留学自体は確実に失敗ではありましたが、当時もまあそれでもきっと長い目でみればいいこともあると思えたことが一つあります。
サッカー日本代表が、あの日韓ワールドカップの2年前の2000年レバノンでのアジア選手権で優勝しました。その立役者になったのが、ジュビロの名波浩選手で、名波選手は鳴物入り?でイタリアセリエAにいったものの活躍出来ずに帰国したのですが、2000年のアジア選手権で日本を優勝に導き残した言葉が「わざわざイタリアへパスタを食いに行ったわけじゃない。海外に行けばこう変わる、というモノを若い世代に見せたかった」でした。私も今振り返ると、だてにフランスでワイン飲んできたんじゃねえ!、ってところかもしれないですね。
とまあ、苦労ばかりに思えるかもしれませんが、逆に自分から前に出ることを覚えると、フランスの中では無敵?なんですね。アルプスの中の山道で脱輪し困っていると、結構な車が止まってくれるので、「脱輪して動けないから手伝ってくれ!」と言えば、わらわらと人が集まって助けてくれるところは、「困った時はお互い様」というか、こうやってフランス革命で王権を打倒するのかな、と思ったり、定年間際の研究者と若い大学院生が実験のことで広角泡を飛ばす議論をしてまるで喧嘩しているように見えても、お互いが違う意見をぶつけ合うことで、お互いがなぜ自分と違う意見であるかを理解すると、それでOKみたいな関係は、意見するだけで反論と思われて追いやられてしまう日本とは違う多様性に富んだ成熟した社会を感じました。
まとめ
で、留学で何が、変わったか、ですが、外国人もみな同じ「人間」だ、ということが肌感覚でわかったことですかね。
最初はわからなかったフランス語も、終わり頃にはそこそこわかるようなり、それでもラボ内ではフランス語わからないので話しかけないで!オーラ出してた訳ですが、ふときくとはなしに聞こえて来たのは、隣のラボの誰々は、自分よりも後に来て業績も無いのに私よりも先に出世した、あれは所長にとり行っているからで許せない、って話を聞き、あー、国や民族が違っても結局人間関係が1番の根幹で、同じ人間なんだな、と笑えたことが一つ。
そして、近隣のアジアの国の人たちへの思いですね。これはお恥ずかしいのですが、留学前は私は国粋主義者で、どちらかと言うと嫌中嫌韓だったのですが、フランスでは特に移民局ではEU圏内の国の人に対する態度とEU圏外の国の人に対する態度が露骨に違うので、日本は特別なんて思っていても所詮は日本も韓国も中国もフランスでは同類にしか思われていない現実を知り、これは隣国歪みあっているのは愚かで、アジアは皆仲間として連帯し、欧米に立ち向かうべきだ、という本当の意味の東亜共栄圏(なんて言ったら右翼的ですが)みたいなものを築き日本がリーダーシップを発揮すべきだと言う思いを持ちました。
帰国後に所属したラボは杏林大薬理学です。あの留学前に「留学は心意気だ!」と励ましてくれた先生のところです。そこでは韓国、中国、タイ、バングラデシュ、インド、イランから留学生からの留学生が来ており、留学で感じた「アジアの仲間たち」と一緒に仕事でき、それは嬉しく思いましたね。ボスが五族共和の満州国からの帰国者であったというのもあるかもしれません。
実際のその後ですが、杏林大に約10年在籍し、アジア諸国からの留学生の面倒みながらなかば彼らの論文を自分の論文より先んじて書いてあげることなりました。自分の論文も無いのに、と思いながらもいろんな仕事の論文を書くうちに自分のスタイルも出来ていった感じで、共著論文も一気に増え、2003年に息子が生まれた後にIFも楽々100をこえ、本気で教授になる思いを持つことが出来ました。
そういう意味で、留学自体での輝かしい成果は全くなかったのですが、「だてにフランスにワイン飲みに行ったわけじゃねえ」って感じで、外人を恐れず対等に向き合い、時には外人ばりに強く自己主張し、それで真の友人になる、のような外国人との渡り合い方、そして広い視野を得られたこと、さらには楽しい世界的観光地で暮らした経験、などなど、色々な面で自分の財産であり、成長させてくれた、と思えますね。
そして最初に書きましたが、「変わり者の自分は日本では受け入れてもらえないから、外国で生活する方が幸せでは?」という考えは、日本にいると自分は日本人の外れにいるように思っていても、フランスに行くと自分も普通にただの日本人という集団の中の存在に過ぎないことがわかり、あ〜、俺も所詮は日本人なのか、と思い知らされた面もありました。自分の出自に気づき、日本人であることを再認識した、って感じです。
また別の点ですが、米国でなく、フランスに行ったことで、今は日仏医学会に入会し、昨年理事を拝命してしまいました。
アメリカ留学した人は五万といますから(笑)、日米医学会なんて多分ないですが、フランスというマイナーな?留学先のおかげで、日仏医学会なんていうオタクな?会に参加できることはそれたまた有難いことです。フランスに行くという人並み外れたことをした人たちの仲間意識というのでしょうか、不思議な帰属感がありますね。
振り返ると苦労ばかりの留学時代でしたが、全てが今の自分をつくる糧になったと思えます。今後の時代を担う若い医師・医学研究者の方にも、「狭き門より入る」楽しさを海外留学で堪能して頂ければと思います。