取材記事:同窓「この人登場《第20回》」紹介

千葉大学第一内科同門会から、「大学時代・研修医時代から現在に至るまでのエピソード等」に関するインタビューを昨年11月に受け、この度今月発行の同門会誌「同窓」の記事が掲載される運びとなりました。

先日m3(エムスリー)でも大学から研修医時代そして今につながる取材を受け、記事化されましたが、

【m3 DoctorsLIFESTYLE】連載:大学別リレー 千葉大学

m3記事では語らなかった内科医時代から基礎研究へと道を変える時期の詳細をもう少し語ってみました。同門会会員向けの内容ではありますが、ご紹介させて頂きます。

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この人登場《第20回》 千葉大学薬理学 教授 安西 尚彦 先生
※安西先生のお人柄が伝わるよう、なるべく口語文で表記しております

本日は宜しくお願いします。
●先生は平成2年に大学を卒業された後、すぐに第一内科に入局されたのですか

すぐに第一内科に入局してそのまま一内に約半年いました。その半年は消化器内科と腎臓・血液内科を半々で周る感じでしたね。僕らの頃は15人同期がいて、翌年の3月末に8人が外に出て、僕ら7人は次に入ってくる研修医の先生方を指導する役割として残りました。その後7人は平成3年10月に外病院に出たのですが、その時僕は水戸済生会総合病院に行きました。水戸済生会には2研出身のH先生と8研出身のN先生の2人のオーベンがいました。僕は2年間水戸済生会総合病院で消化器内科にお世話になって、それから平成5年10月に大学に戻りました。半年先に出た8人は既に戻っていて、僕ら7人も揃って戻った感じですね。研究生を続けていくのだと思っていたら当時「大学院重点化」と言うのが始まって平成6年に大学院に入りましたね。当時、加藤直也現教授のご同期の故牧野先生が腎臓グループのエースだったのです。凄いスマートで頭が良くて「かっこいいなぁ」と憧れていました。内科学会の関東地方会、それが僕の最初の学会発表なのですけど、そこで発表した後一緒に横浜中華街に飯を食いに行って、故牧野先生から「先生腎臓来なよ」って言われて「いいですね」みたいな感じで洗脳されてましたね(笑)。でも腎臓のベッドは当時5床しかなくて臨床研究なんて出来ないから(教室)外に行くしかないねって言われていたんですが、じゃあどこに行こうかなって思っていたちょうどその時にたまたま第二生理学に腎臓の生理をやっている先生がいるのがわかったんです。故福田康一郎教授の時の准(助)教授で東大から来ていた河原克雅先生のところを勧められて、言われるがままに門を叩きました。腎生理の実験を始めて2か月後くらいに「来年の4月から北里大学の教授になるのだが、一緒に来るんだったら助手にしてあげる」って言われて、流れでついていきました。平成7年の4月から一緒に北里大学に移ったのですが「引越しの片付けで実験なんて出来ないから好きな所へ行って実験を覚えてくれば」って言われて、たまたま河原先生と一緒に実験をやっていた附属高次機能制御研究センターの清野進先生がやっていた発達生理分野(今の細胞分子医学)に行って当時助手だった稲垣暢也先生について遺伝子(Molecular Biology)の実験を教わるんですね。清野先生は神戸大に戻って生理の教授から糖尿病内科の教授になり、稲垣先生は秋田の生理学の教授から京大の糖尿病の教授になり京大の病院長までやった先生で、当時凄い人が千葉にいたのですよね。4月から6月まで高次機能制御研究センターに出入りさせて貰って、7月から北里大学の助手をやりました。

●このあたりがターニングポイントとなったわけですね。

水戸済生会総合病院でバリバリ消化器をやっていた経験が大きく影響しましたね、大変だったんで。そして流れに乗って行ったらいつの間にかドロップアウトというか(笑)。紆余曲折を経てそうなりました。

●フランスに留学されたのはこの後ですか

4年間北里大学で助手として働いてからフランスに行きました。話せば長くなるけど、4年間基礎研究をやっていて論文を一つも出すことが出来なかったので基礎辞めようと思ったのですね。その時頭に浮かんだのは、皆が卒業旅行で行っていたヨーロッパに留学したいという事でした。僕は母子家庭で貧しかったのでみんなと一緒に卒業旅行に行けなくて悔しい思いをしまして、「医者になって留学してやる」って思っいたのを思い出しました。第二外国語もフランス語を選択していましたし、生理学で僕は腎臓のカリウム排泄関係の研究をしていたので、そのイオンチャネルをやっている研究室に行きたいと思っていたのですね。でもたまたまフランスのコートダジュールという観光地として一番良い留学先に行けました。僕はフランス政府給費留学生として行ったんですが、受け入れ先が決まって無いと申請が出来ないのですね。受け入れ先については、とあるご縁をいただいたお陰です。今で言う学術変革、当時は重点領域研究というプロジェクトがあって、たまたまフランスの先生が大阪大学の先生と共同研究をやっていた関係で、その先生が日本に来ると言うんですね。その先生の講演を是非聞きたいって上司の先生に言ったら、「じゃあ特別講演で呼んじゃおう」みたいな感じになって、北里大まで来てもらったのですよ。その先生は大阪から山形のシンポジウムに参加することになっていて、「成田から帰るんだったら北里は山形と成田の中間だ」とか大ウソついて来てもらいました(笑)。特別講演の日の夜食事会に行った時に教授が「彼はフランス語を勉強しているんだ」と紹介してくれて、日常会話くらいのことしかできないんだけど話をさせて貰ったのですよ。「次の日の午前中観光で鎌倉にでも行きませんか」って誘ったら、「行く」って言ってくれたんですよね。そういう流れになる可能性を考えて事前にある程度鎌倉の大仏とか神社とかを説明するフランス語を必死で勉強して頭に叩き込んでおいたんです。それでフランス語で半日鎌倉を案内しました。で、「お前はなんでそんなにフランス語を喋るんだ」って聞かれたから、「あなたのラボに行きたいんだ」って言ったら、「喜んで!」って言ってくれて、それで行き先を決めました。ただお金は自分で用意しろと言われたから滞在費をどうしようか悩みましたね。3年以上基礎研究をやっていて論文が出来ないからフランス行って遊んで帰ろうと思っていたのに、逆に論文が無いとお金取れないのだよね(笑)。その時民間の留学助成金がいくつかあるのを初めて知ったのだけどやっぱり論文が無いと通らなくて、最終的にちょっとお金は安かったのだけどフランス政府給費留学生というのに応募してなんとかかなんとかめでたく通って、それで行けることになったので、自分で頑張って探しましたって感じですだね。

●フランスでの生活はどうでしたか?会話とか

ラボの中にはイギリス人とかドイツ人とかもいてチュニジアとかそういう所出身の人もいるから、ラボの中ではフランス語よりは英語でディスカッションするから大丈夫なのだけど、きついのはお昼なんだよね。お昼は研究のことじゃない話題をフランス語でバリバリ喋られちゃうから、何言っているんだかわかりませ〜んみたいな状況で(笑)、突然話を振られるけど、それが英語かフランス語かもよくわかんなくて(笑)。話題についていけないのでもう途中からは一人で食事していましたね。あと、実験をしていると技術員の人がいるじゃないですか。その人たちは絶対英語喋ってくれないからラジオアイソトープを使っている部門とか動物を使っている部門とかフランス語で説明されても全然わかんなくて大変でしたね。同僚に助けて貰っていました。英語も得意じゃないのにフランスに留学したから、どっちも実力不足で。海外留学した人って英語は得意な人が多いと思うんだけど羨ましいなと思っていました。フランス語喋れるのかって言われたら全然喋れないし、言葉については大変でしたね。期間としては約2年間留学していました。あの辺ってちょっと車で走ると風光明媚な地がいっぱいあるんで、週末になると元気になって、電車に乗ったり車に乗ったりしてプロバンス地方にラベンダーを見に行ったりとかしまして、特に週末は凄く楽しんでいました。夏はサマータイムで夜遅くまで明るいんだけど、6時とかにラボ終わって帰ってくると夜10時まで明るいから、終わった後に海に行ったりして平日も楽しかったですけどね。家内と二人で行ったから新婚旅行ムードでした。

●研究はずっとイオンチャネルをされていたんですか

そうですね。当時プロテオミクス実験に酵母ツーハイブリッド法と言うのがあったけどフランスのラボでは成功してなかったんですよ。「お前やるか」って言われて、バカなので「やります」って言っちゃって(笑)本当に1年以上データが出なくて、またデータ出ないのかよみたいな感じでしたね。フランスのラボに約2年いて頑張ったんだけどポジティブデータっぽいのは出ていても結局意味のあるデータかどうかはわからなくて日本に帰ろうと思っていました。そろそろけつまくって基礎は終わりにしようと思っていた時に、北里大学の上司の友達である杏林大学の腎臓薬理の遠藤仁先生から「じゃあうちでもう少しやらないか?」って声をかけて貰って、じゃあ杏林に行きますという流れになったんですよ。声かけて貰ったしこれも一つの縁かなと思って。杏林大の遠藤仁先生のところに平成13年の8月に移ったんですが、そこからが試練の日々であると同時に業績が一気に増えた時期でもありまする。そこで10年色々やって獨協医大の教授へ声がかかって、教授選に出て勝って、平成23年、忘れもしない東日本大震災のあった3月の次の4月から獨協医大に行ったんですよね。杏林大学にいた10年間は研究ばっかりの日々でしたね。子供が生まれたりして、まぁ楽しかったですね。教授では無かったので研究だけやってればよかったしね。

●平成28年の教授選の時に千葉に戻られたんですか

そうですね、他大学の教授になってそこでずっとやってくぞって気持ちでいたんだけど、千葉大の教授選があるから出ないか?と言われ母校に戻ることを考えました。獨協医大の学長の稲葉先生は元々千葉大卒の産婦人科の先生だったので理解を示してくれましたね。「君は獨協で5年間しっかりやってくれているし、他大学に行くのはダメだが母校で呼ばれた時は例外的にそれを認めるべきものだから許そう」ってことで、学長のOKを貰って応募す戻ることが出来ました。

●生理学から薬理学へ転身されたのはどうしてだったんですか

生理学って生き物の理(ことわり)を探し出すという分野なので生理の先生たちって哲学者みたいな方が多いですね。薬理学者は少し臨床寄りで、薬を作って患者さんにそれを返さないといけないと思う人が多いです。やっぱり僕は第一内科にいたから、「お前研究ばっかやりやがって」って良く言われるけど、「いや俺だってやっていることは将来必ず患者さんの為になる」ってことが言いたかった。薬が出来れば自分がお医者さんをやらなくても病気が治せるんじゃないかなって。そうすると生理学をただやっているだけよりは、そこをベースにして薬を作るようにしたいと考えるようになっていったんですよね。もともと僕が第一内科に行った理由って言うのが、僕の父親のことなのですけど、僕が中二の時に大腸がんで死んでいたからやっぱりがんを治したいって気持ちがあったんです。ところが医者になってみたら治らない人ばかりでメンタルやられてしまったんですけどね。生理と薬理の違いとして、薬理学者は例えばカリフォルニアで金が出るとわかれば金鉱を探しに行くタイプんですよ。テキサスで油田があると聞くと油田を堀りに行くタイプんだよね。つまり薬を作るってことは、これがひょっとしたら薬になるんじゃないか、そしたら当たれば一攫千金、そういうワクワク感があるんだよね。そのワクワク感が辞められなくて、金を掘りに行っては金が出ないこともあって、それでも後悔はないんだよね。生理と違って、〇か×か、×だったら終わり!はい次!って感じの、そういう薬理の感覚が凄く肌に合っていたので転身しました。腎臓のイオンチャネルからトランスポーターに変わったんですけど、トランスポーターは実はがんの細胞でも出ていて、特にがんが生きる時の必須アミノ酸トランスポーターが腎臓にあるのと非常によく似ている。これはLAT1というトランスポーターなのですけど、これが必須アミノ酸を運ぶんです。必須アミノ酸は自分で作れないから外から運ぶしかなくて、じゃあそのがん細胞の必須アミノ酸のみを抑えたら、がんが死ぬんじゃないかと思ったんですね。そしたら見事にそのことをデータとして出すことが出来たのですよ。杏林大学の遠藤先生は腎臓の薬理だったんだけど、もう一人の研究教授の金井先生(現大阪大学教授)がそのLAT1を見つけて、これを教室として薬にしていこうって言うことで、そのプロジェクトに僕も入ったんです。だから本来の理想だった消化器内科でがんを治そうと思って挫折したけど、まわりまわって20年経ったら、なんとがんの治療薬を作る所に戻って来たということです。長く何かやっていても最初に思ったことはずっと忘れないもの物なのか。それで今は、LAT1の薬を色々ながんで試して、効くがんを探しているところです。特に泌尿器のがんによく効くんで、千葉大の泌尿器科の市川先生、坂本先生とコラボしてやっています。消化器のがんは、そこまで薬が届くかどうかってところでなかなか難しい。尿路系だと、尿の中に薬が流れていけば到達するから届きやすいんですけどね。

●どの段階まで進んでいるんですか

今この薬は第二相まで行っているかな。第一相は終わって安全性はクリア出来たので。いろいろあって第二相で止まっているところ(笑)

●メーカーと組んだり国に申請してなんとか進みませんか

遠藤先生は杏林大学を辞めた後にジェイファーマっていうベンチャー製薬会社を自分で作ったんだよね。本当はそこからライセンスアウトって言って大企業に買って貰えるようにやっているんだけど、まだそうなってないね。

●ではこれからその薬が世に出る日を楽しみにしています。その時、安西先生は歴史を変えるんですね。

そうそう。そうなって欲しいね。それと同時に、薬って言うのはそれを先行させながらその次のことも考えなきゃいけない。体の中の滞留時間が短いとか副作用が出るとか、そういう可能性があるので。だからこの構造を少し変えたような薬も作っているんだよね。最初で詰まったとしてもオーバーカム出来るような形のスペアを作るので、一つ作ってダメだとそれは終わるんだけど、それを乗り越えられるような準備を常にしながら次に進んでいくって言う形で進行させています。まず最初がJPH203って言うんですけど、それが進んで欲しいと同時にそのバックアップも作っている状態で、今のがもし潰れたらまた次の化合物で第一相を目指すんです。

●将来先生と同様の研究を行いたい医師はどこからスタートしたらいいのでしょう。生理学的なものをしっかりと勉強しないといけないのでしょうか。

やりながら勉強すればいいと思いますね。むしろ臨床の先生の方が薬のニーズに気が付くことが多いと思うんだよね。薬の研究開発って聞くと薬学部と思われるかもしれないけど、やっぱりなんの薬を作るかってところが一番大事なので、そこは臨床に関わるお医者さんの方が気付きやすいと思う。臨床の先生が日常疑問に思う「これってもう少し良い薬無いのかな」ってところからスタートして、良い薬をつくる為の何がキーになるかっていう標的が決まればトランスポーターとかリセプターだったら生理学薬理学に行くし、酵素だったら生化学に行くし、遺伝子だったら遺伝子の研究室に行くみたいな感じで動いていく。お医者さんと相談しながら、たんぱく、遺伝子、受容体、酵素とか広げて行って、そこにフィットするものがあれば、大規模解析とかでやって、その引っかかってくるところからスタートするって言うのが薬理のやり方かな。千葉大だと、年間20件以上の学位審査してますが何かを見つけて、がんに重要だという事がわかっても論文書いて終わりってことが多いから、本当はこれを突き詰めてくれたら本当の薬に繋がる所があるはずなんだよね。1/10くらいの確率かもしれないけど。大学院を卒業して学位貰って終わる人が凄く多いのが残念。本当はそれを突き詰めてくれたら、もっと薬の開発も展開が広がると思うんだけど。

●そこから更に発展させてく方法を是非先生に教えていただきたいです。

そこは基礎の役割だよね。絶対臨床にいながらでも出来るからもっともっと臨床の先生がやってくれると嬉しいんだけどね。いつでもコンサルタントとして、相談に乗る用意はあるからね。特に消化器内科の先生であれば。もともと消化器の先生には大変お世話になっていたので。

●薬学部と薬理学で行っている研究はどのように違うのですか

僕らが飲む錠剤の薬って、有効成分だけで出来て無いですよね。有効成分はあの中の一部で、例えば有効成分が分解しないようにとか、1年2年経っても安定でいるようにとか、そういう薬を被せているんですよね。薬学部って言うのは、もちろん薬を作る(化学反応で合成する)先生と、合成されたものを製剤と言って長期安定させる物質は何かを探している研究があって、そういった化学合成のスペシャリストが薬学部なのですよ。この薬が何に効くのか、何のためにこれを作るのかって言うのは、正直医者じゃ無いとわからない。薬学部では薬の目的が作れない。彼らは何か化合物を作るって言ったらなんでもできるんですよね。有効成分でもっと良いものをと言うと化合物の合成展開をして形を変えて、これが効くかもこれが効くかもこれが効くかもって言う風な構造活性相関と言うやつをやってくれるし、出来た化合物を経口薬として作るにはどんなものがいいか、注射薬として作るにはどんなものが長期間安定かっていうのを、そういう研究とか、僕らがあんまり預かり知らないところをやっている研究が薬学部なのですよね。でもそれが動物とか人に効くかどうか調べるのが薬理で、効くかどうか調べるってのはやっぱり医学部の先生が評価する。ということはこの薬理が凄く重要。だから、薬学部の先生だけでは薬は出来ないんですだよね、お医者さんがいないと。消化器内科から、薬理にくる先生を待っています(笑)

●消化器内科は外部の先生をお呼びしてレクチャーして頂く機会がありますので、是非先生にもお願いしたいです。

もちろんやれることであれば全部やります。あと科研費とか出す時も教室の中でチーム組んでいると思うけど、やっぱりそこに基礎の先生が入って基礎とコラボしているように見える方が採択率はもっと上がると思うんです。エフォートの関係もあるけど、僕も10人くらいの申請に名前貸ししているから、そうやって使ってくれるのも僕は重要なことだと思う。そういったところでも相談してくれれば、これだったらこの先生が良いとかもわかるから。是非利用してください。

●薬理は全員ドクターなのですか

基本的にそうだったんだけど、最近医者が枯渇して教授だけがMD(ドクター)で、それ以下はお医者さんじゃない教室がほとんどですね。うちは准教授はMDですが。本当はお医者さんで薬の研究をやっていて最後は薬理の教授でもやってみようかなって人を待っているんだよね。お医者さんじゃ無いと出来ないから。

●最近は国内留学や海外留学を希望しない先生が多い中、安西先生のように色々な施設に行かれてみてどのように感じられますか。色々な施設に行った方がいいと思いますか

僕はその方が良いと思いますね。今までの人生は人の出会いによって助けられた部分が凄く多いので。大学の垣根とか超えていけば、喜んで受け入れてくれる人が僕の場合はほとんどだったので、怖がらずに行って欲しいなと思います。頑張ってください。

貴重なお時間を頂きましてありがとうございました。先生の素晴らしい経歴もお人柄もよくわかりました。
●最後に若い先生へ、一言なにかアドバイスを頂けますか

研究はデータが出ないと辛いと思うし学会発表もしなくちゃいけなくて大変だと思うのですが、その苦労はいつか必ず報われると信じてください。なんとなく楽しさを見つけてくれるといいですよね。僕もそうでしたが、その苦しい中でも薬になるかもしれないと思ってやっていて、特許とか出していると「これがもとになって薬が出来るかもしれない」と思ってテンションが上がるのですよね。特許は今3つくらい持っているのですけど、どれかが当たってくれたらなとか、そんなこと思いながらやっていると、ネガデータが毎日続く日々の中でもやっていけるかもしれないので、めげずに頑張っていただきたい。必ずどこかで報われます。

(文責 MM)

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